星野村観光情報

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福岡県八女市星野村には、長い時の流れを経て守られ、受け継がれてきた文化遺産や伝統行事が数多くあります。それらを私たちはこれからも将来にわたって大切に保存し、伝え続けていきます。ここでは、星野村の様々な観光スポットをご紹介いたします。

※星野村ホームページより引用

風流・はんや舞

《国撰択重要無形民俗文化財 昭和52年12月指定》
風流・はんや舞

福岡県無形民俗文化財 昭和35年3月19日無第38号指定山中の大池(麻生池)のほとりにある麻生神社に伝わる舞楽でありますが、その起源はさだかではありません。遠く弥生文化の時代に始まったと伝えられる水神崇拝により、この池は霊地として古くから崇拝され、ここでは晴雨祈願・風止の祭りが行われてきました。
その後、平安時代に生まれた、公家舞の名残りといわれるはんや舞・風流をこの祭りに取り入れたものと思われます。昭和の大典には主基地方斉田の風俗舞の歌の原曲に宮内庁雅楽官によって採録されました。
昭和35年には、国内でも珍しい文化財として福岡県の無形民俗文化財の指定を受け、さらに昭和52年12月に「撰択重要無形民俗文化財」として国の指定も受けました。

懐良親王御墓所

懐良親王御墓所

懐良親王は、第96代後醍醐天皇の皇子であります。御年8歳で、征西将軍の命を受けられました。
正平3年(1348年)、菊池氏の本拠地隈部城に入られ、正平14年(1358年)8月には、九州をほぼ統率されましたが、文中元年(1372年)、太宰府の陥落により零落の一途をたどられました。天授3年(1377年)星野村の大円寺に入られ、この地で九州にある南朝方の統率にあたられましたが、弘和3年(1383年)3月27日、御年55歳で死去されました。
御遺体は、空谷山(大明神山)に埋葬されました。

星野氏館跡庭園

星野氏館跡庭園

本星野の高木氏宅の居住地が星野氏館跡であり、星野氏の館の一部が、高木氏宅の庭に残されています。室町時代の築造と思われます。 館跡の上段にある茶の栽培園は高貴の方と因縁のあるところと伝えられて、昔から糞尿を肥料として施してはいけないといわれてきました。
星野氏の遺跡として、大切にされてきたものと思われます。

大円寺(歴史資料館)

大円寺(歴史資料館)

創建は神亀2年(725年)で、かっては太宰府観世音寺の末寺として、この地の領田の管理掌握に当たっていました。天正年間には村内に11の下寺をもち、大きな勢力を持っていました。
延元3年(1338年)、征西将軍に任ぜられ九州に下向された懐良親王は、一時九州の北朝方を鎮圧されましが、建徳2年(1371年)、九州探題として西下した北朝方の今川了俊との高良山での攻防戦をさかいに勢力が衰退し、天授3年(1377年)4月、大円寺(星野御所)に退かれました。
良成親王に征西将軍職を譲られた後も、この地で南朝方の統率をされていましたが、弘和3年(1383年)3月27日、大円寺で死去されました。御年、55歳でありました。

平和の塔

平和の塔

これは、昭和20年(1945年)広島・長崎の原爆によって亡くなられた方々の冥福を祈り、世界平和への願いを新たにしていくために建てられました。
塔の中に燃える”平和の火”は、焦土と化した広島から星野村の山本達雄さんが持ち帰り、やがて村が引き継いで、今日まで絶えることなく燃え続けています。
世界の恒久平和を願う星野村の人々の心のシンボルです。

小野神社

《嘉暦2年(1327年) 小野四郎三郎頼時 母・比佐尼 如心  創建》
小野神社

はじめ、小野内宮大権現宝栄山宝勝寺と称しましたが、神仏分離の政令によって、小野神社と改められました。
小野頼時の父、大進頼承は、弘安の役(1281年)で大功をたて、鎌倉幕府に重用されましたが、霜月騒動のため失脚し、頼時は、母如心と共に鎌倉を追われ、西国に落ちて行きました。途中、暴風にあって危険にさらされましたが、その時、箱根権現の加護でたすかりました。
永仁元年(1293年)父、頼承が無実であることが判明し、その功績に対して、小野の庄の地頭職が与えられました。
頼時は小野の地に居を定め、箱根権現を観請し、一族の守護と繁栄を祈願しました。それが小野神社の始まりと言われています。

室山熊野神社

室山熊野神社

室山神社とも、無漏山十二社権現とも言っていました。また、無漏山泡来院岩念寺と寺号を称しました。
祭神は、伊弉冊尊、速玉男命、素盞嗚尊の三神であります。星野氏の始祖八郎胤実が一族の武運長久と繁栄、領民の幸福を祈願して、嘉禄2年(1226年)に熊野権現を勧請して室山の地に神社を建立しました。
文明9年(1477年)、焼失していたものが再建されましたが、慶長12年(1607年)に再び焼失、元禄12年(1699年)に再建され現在に至っています。
明治初年の神仏分離令によって、室山神社となり、全村民の崇敬の中心として今日に至っています。

鷹取城跡

鷹取城跡

耳納連山、鷹取山(標高802m)に星野氏が築いた山城です。星野10代領主鎮種が築き18代鎮胤が改修して移ったと調(しらべ)氏〔星野〕系図は述べています(城郭は東西42間、南北10間)。
城跡の東方に防禦の空堀あとと思われる遺構があります。本星野館(星野側)。延寿寺福丸城(浮羽側)の詰の城として重要な役目を果たし、全国で一番高所の山城であります。
東南面は緩やかな山なみが星野村に、北西面は急峻な斜面で筑後川流域を一望のうちに見られる眺望絶美なところです。

御良八幡宮

御良八幡宮

祭神及び建立の時期は不明です。
寛永18年(1641年)、本星野の仙頭九郎右衛門が丸山森に再興しましたが火災にあい、延宝6年(1678年)に現在に再建され今日に至っています。
船曳鉄門説には「御良八幡宮ト記セル、コレハ其御霊ヲ祀レルヨリ、御霊ト稱セシ事ハ論ナカルヘキヲ、御良ナトニモ書ケルハ如何ニモ不審シキ事ナカラ、熟案ヘハ御諱一字ヲ取リテ土俗ノ私ニ稱シ奉レルトソ思シキ・・・」とあります。
境内にある橋を御所橋、そばを流れる川を御霊川と、土地の人はよんでいます。
なお、伝承されている芸能に、八幡太鼓があります。

金山神社

金山神社

弘安7年(1284年)に金山が開発され、産金がつづけられてきましたが、寛永元年(1624年)から明暦現年(1655年)までの間が金山の隆盛な時で、三坂に金山町が出来、黄金山正念寺が建立されました。
金山神社は正保2年(1645年)池田興兵衛の手によって建立されました。金山で働く人々の安全と産金の増大を祈願されたものと思われます。祭神は大山祇命と金山彦神の二神であります。
久留米藩主有馬公の崇敬も厚く、「金山大明神」の額の文字は、享保7年(1722年)壬寅之歳に崎水巴陵禅師の書、瀬渡將捷彫之と篇額裏面に陰刻されています。

平野不動尊

平野不動尊

戦国時代の作と言われています。熊野権現(室山熊野神社)の一間四面板葺の堂に祀られていた木造不動明王坐像です。
神仏分離令(慶応4年3月の「太政官布告」「神仏判然令」)によって棄てられ、明治14年8月、現地に祀られました。
※(室山氷室文書)寛文10年8月神社帖に「肥後国阿蘇山伏峯入之時一宿仕札納申所」
※(国阿蘇山伏古文書)寛政12庚申天。阿蘇山峯記録に「室権現ノ宮ニテハ二ノ宿ハ不動ノ拝殿ニ宿ス(文政11年)二ノ宿ハ不動堂ニ宿ス(文久2年)。」とあります。(二ノ宿とは、山伏峯入り総指揮者の補佐役)

石積の棚田

石積の棚田

星野村を代表する景観の一つに棚田があります。
この棚田が醸し出す風景は、四季を通じて本当に美しいものがあります。
この棚田は、長い時間を費やしクワで切り開く中で発生する山石を一つ一つ積み上げ作られたもので、本村のいたるところに見られる山村特有のものでもあります。
いつの時代から作られたものか、その起源は定かではありませんが、石積の面積よりたんぼの面積が小さな所もあり、傾斜地の中で最大の農地を確保するために苦労した先人の努力がうかがえます。
また、開墾による棚田づくりも大事業であったはずですが、同時に用水の確保のための山間の渓流を用水の源に求め、岩を削り土堤を築き、石を組みながら長い用水路を築き、開墾した山田への命懸けで水を送った先人たちの知恵と技術のすごさは創造を絶するものがあります。
今日、米の自由化問題が外交的・国際的にも大きな問題となっていますが、広大な農地を営む人々には、山村の歴史は思いも着かないものであるものではないでしょうか。

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